製糸と養蚕

富岡の製糸工場が世界遺産になったそうだ。そういえば大正から昭和にかけて
養蚕が普及して、私の故郷でも盛んだったことを思い出す。

実家は明治8年に建てた古い民家で、1階は応接間から居間、座敷、奥座敷、納戸
お勝手、女中部屋などとだだっ広く、現今の建物の常識では効率の悪い建物であった。
2階は養蚕室で一面茣蓙が敷いてあって、人の住むところではない。

春先、桑畑の若芽が出てくる頃、解雇の幼虫(黒い毛虫だが微細で見えないくらい)を
グラム単位で購入する。畳一畳くらいのムシロを並べたものに桑野若葉を敷き詰めて
その上に幼虫をばらまく。成長するにつれて桑は枝ごと与えてゆき、やがて繭を作り
その中で蛹になるのである。

これらは祖母が取り仕切り、近所のおかみさん達を使っていたのである。しかし祖母が
61歳で早死にし、また戦争が拡大していったせいか、養蚕も沙汰やみになってしまった。

一説には、アメリカではご婦人用の絹の靴下が持て囃され輸出も盛んだったが、人口線維の
スフ[ステーブルファイバー]が発明されて、養蚕も下火になった由。

ぼくらは小学生で、梅雨時には桑の実が色づきはじめるので、桑畑に入り込んで
口が真っ青になるほど、紫色の桑の実、カミズと云ったっけ[桑実ず?]を食べたものだ。

これが当時の家である。姉が子供の時代だ。
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この記事へのコメント

ひろし
2014年06月30日 16:16
何度も父が生まれた家へ行ったが、女中部屋が有ったとは知りませんでした。
祖父が寝て居た部屋かな?、それとも台所の隅に有ったのかな?。
お蚕さんの様子の写真、今でも大事に持ってます。
左側の野球帽を被ったのが曾祖父かな?(大人しそう)。
僕も桑の実を食べて、今はこちらの近くの畑に有り、昨年まで赤黒く熟したのを
食べました。そうで無いのは酸っぱかったです。
先日食べに行ったら、ばっさりと切っていて無念。
兎も角大きくて立派な家でした。居間へ上がるのに段差が有って
苦労しました(高過ぎ)。此処で初めて大きな天の川を見ました。
成城官舎に住んでた頃、祖父からの手紙に(ひろ坊元気か)と
書いて有りました。
色々な思い出が有ります。
何時か訪ねて見ようかな。

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